キョンと呼ばれた男 第一章過去と未来の逆転 異議あり!byキョン



俺は天文6年(1537年)に尾張(現・愛知県)の中村の百姓の息子として生まれた。別に何の当たり障りなく今まで生きてきたが、こいつに逢って全てを思い出した。あれは確か・・・・



「おっそいわよ!!キョン!!」

「すまんな。しかし、まぁ、そういうな。俺は人の心が読めるわけではないからな。」

「まぁ、いいわ。それより今日の議題は・・・時空旅行についてよ!!」



やれやれ、何時も通り、いきなりは滅茶苦茶なことを言ってくれる。まぁ、いいさ、どうせそんなことで気やしないさ。いくら、こいつの能力をもってしてもな・・。



「そんな弱腰じゃ何も出来ないじゃない。」



まぁ、それはそうだがな。



「で、どうするんだ。」

「皆で輪を作って真剣に過去に行きたいと祈るのよ。」



はぁー、そんなことでだな、時空旅行できればアインシュタイン博士やその他諸々の俺が名前を知らない博士たちも苦労しなかっただろうに。ハルヒ、よく考えろよ、時間の波を飛び越える為には光より早い速度を出してだな・・・・これ以上はワームホールだのなんだの出て来て面倒なので区切らせてもらうぞ。



「うっさいわね!!出来るったら、出来るのよ。」



あー、はいはい。分かりましたよ。やれば、いいんでしょ。やれば。

まぁ、俺はどうせ出来ないことを長々とやるのもどうかと思うので、さっさと終わらせようと思い、ちゃっちゃとハルヒに言われたとおりに両手で輪を作りその後も謎のポーズと謎の呪文を唱えさせられた。

一時間経過

もう終わらせないか?俺、もう眠くなって・・・き・・・・た・・・





















俺は1537年2月21日に尾張中村に百姓の家にO型の男として生まれた。

しかし、いつのころからか俺のことを皆がキョンと呼ぶ様になっていた。たしか、最初に言い出したのは叔母の一人だったと思う。しかし、どうもじれば俺の本名からキョンが出てくるのだろうか? それを妹が面白がって呼び始めて、俺の友達がそれを聞いて俺は晴れてその日からキョンとなったのだ。



まぁ、そんな俺の生い立ちのことを長々と話してもしょうがないからな、現在(1554年)のことを話そう。俺は家族を養っていくために地元の大名である、織田信長(織田上総介三郎信長 幼名・吉法師 1546年6月23日〜1582年6月21日)とかいうお偉いさんに草履取りとして使えている。

しかし、きっかけ何ていうものは何気ないことや自分が意図していないことから生まれるものだろう。そう、あれは春のまだ寒い時のことだっただろうか、俺はそのお偉いさんの草履を何時も通り庭へ下りる庭石のところに置くとうっかり尻に敷いていた。



「おい、キョン!!」



へい、へい。そんな朝から怒鳴らないでくれ。俺はお前の家来だが、キョンという愛称を教えことは無いぞ。



「はい。なにか」

「お前、俺の草履を尻に敷いていたな!」



ああ、そのことか。しかし、ここでイェスと言ってしまうと俺はここで斬られるか追い出されるんだろうな。そんなのどっちもごめんなのでここは一つ嘘でも吐いておくか。



「いいえ。」

「ならば何故、この草履は暖かいのだ。」

「いえ、殿の足が寒いだろうと思って腹の中に入れて温めていました。」



ああ、このときほど俺の中に演技の才能があればと思ったことは無い。何故、こんなに俺は棒読みでこの台詞を言っているんだろうな。こんなんじゃ、いくら馬鹿の谷口・・・じゃなかったな、何故か奴のことをそう呼んでしまう。そう、又左衛門(前田又左衛門利家 幼名・犬千代 1539年1月25日〜1599年4月27日)にすらばれてしまうだろうに。



「ほほう、そなたなかなか感心な奴じゃ。よし、そちの名はキョンだったな、覚えておこう。」



そういうと信長様はさっさとどっかに行っちまった。まぁ、あんなんで、騙しきれたんだからかなり馬鹿なんだろうな。評判のうつけ殿だからな・・・・。ていうか、あいつが死ぬと俺の就職口はどうなるのだろうか?ああ、俺を雇っても良い、何ていう酔狂な大名はほかに日本中探してもいないだろうに。織田信長様様だ。



まぁ、このときの会話が俺のわけが分からん出世街道への第一歩だったのだろうな。

その後、俺は清洲城(現・愛知県)の普請奉行(城の城壁修理など工事一般の管理官)、台所奉行(城にある米の備蓄量などを調べて間違いなく管理する者)とトントン拍子で出世していった。

まぁ、足軽衆(一番の下っ端)から足軽組頭(これまた一段階の出世)へ軍事面でも出世したがな。



おお、そういえばきっかけといえば、俺の家の近所には才色兼備、容姿端麗と噂の美人がいた。ただし、変人としては超有名であったが・・・・。まぁ、近所ということもあり仲はそこそこ良かったという程度なのだが谷口からみれば天変地異の前触れだそうだ。(ちなみに谷口からはもう名前なんてどうでも良いと言われて私的には谷口と呼んでいる。)

その女性の名前はねねと言うはずなのだが・・・俺はハルヒと呼んでいた。何でだろうな?何故かその名前でしかあいつを呼ぶことが出来ないのだ。

まぁ、いい。ところで話を元に戻そう。そうあれは俺が信長様に仕える前の日の事だった。



「ちょっと、キョン!」



早朝、殆ど無音の城への緑ばっかのナチョラルハイキングコースを通勤していた俺は、そのけたたましい声に呼び止められた。おー、誰だよ、寒いんだから早く城に行って火鉢に当たりたいんだよ。



「うん?ハルヒかどうした。」

「こ、これ、あげるわよ。」



そう言って彼女が残していったのは竹の乾燥させた葉で包まれた、よく時代劇などに出てくるお握りだった。弁当ならあるのだがな・・。もっと、手袋などこれから必要になってくるものなら良かったのだがな。しかし、それはおふくろが作った握り飯とは天と地、月と鼈という具合の差があるうまさだった。

それから毎朝、俺はハルヒから弁当をもらうことが日課になっていた。

しかし、俺はハルヒに対して特別な感情を抱いていたのかというと不明である。

しかし、たまには二人で外を歩いたり(俺はハルヒに引きずられてるだけ・・。)、買い物や食事に付き合わされたり(俺のおごり)となかなかの高支出をたたき出してくれた。困った奴だ・・・。

しかし、村の連中は俺とハルヒの関係を友達としてではなく恋人としてみていた。断じて、違うからな。

しかし、俺たち二人の運命を決める出来事も刻一刻と近づいていた。

恐ろしい速さと強大さをもって・・・・・



キョンと呼ばれた男 代一章過去と未来の逆転 





ここからはキャラクターを誰に扮したのかと主な登場人物を説明します。(ネタばれはあるかも?)



主人公 木下藤吉郎(羽柴秀吉、豊臣秀吉)byキョン

戦国一の出世頭。信長が本能寺の変で1582年に明智光秀に討たれると山崎合戦で明智軍を破り、小牧・長久手合戦、賤ヶ岳合戦、北条攻め、九州征伐、四国征伐などの緒戦で勝利し(小牧・長久手は外交上の勝利)乱麻のごとく乱れる天下を治める。後に太閤(関白)となり、太閤検地や刀狩りを行い、兵農分離を進めた。2度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)、千利休切腹、秀次事件をなどを断行したことから晩年と壮年の評価が分かれる。



ヒロイン ねね(高大院)by涼宮ハルヒ

浅野長勝の養女。親の反対を押し切って、秀吉に嫁ぐ。秀吉とねねのあいだには実子がなかったため養子・親戚一門の義理の母とも呼べるような教育を施す。夫とは浮気を理由に派手なけんかを起こして主君・信長に仲立ちをしてもらうなど嫉妬深い正確だったといわれる。(自分だけそう思っている可能性があります。)最後は徳川家康に図り高大寺を作りそこで秀吉の冥福を祈り、生涯を閉じた。



織田信長(第六天魔王)無し

荒ぶる諸国の武者を打ち倒し天下統一レースを独走した戦国三英雄の一人。楽市楽座で座の特権をなくしたり関所を廃止するなどして自由商売の発展を促した。軍事面では1560年桶狭間で今川義元を破って(桶狭間合戦)から天才的采配を持って1575年長篠合戦で武田勝頼に勝利する。しかし、非常に冷酷な人物と知られ自分に逆らったものは許さないという完璧主義者だったという。越前の一向一揆では1万2千人が皆殺しにされたという。(松永久秀などのごく一部の特例も見受けられる。)1582年に家臣・明智光秀が謀反を起こし本能寺で討たれた。





前田利家(又左、犬)by谷口

織田、豊臣家臣。槍の又左、槍の又左衛門の異名をとった勇将。又、非常に統率力や先見性に優れた。萱津合戦で初陣を飾り、織田家の家督争いで会える稲生合戦においても功を上げた。しかし、同傍の拾阿弥を切り殺して一時追放される。しかし、桶狭間や森部の戦いで功を立て帰参。東北司令官が柴田勝家になると与力として加わる。賤ヶ岳の戦いでは中立を守り抜いた。豊臣政権下では加賀の支配を担当し、加賀百万石の礎を作った。五大老の一人。





竹中重治(半兵衛)by古泉

たった16人で主君・斎藤龍興から稲葉山城を奪うも、龍興の改心を条件にあっさりと返還した智謀の将。(伝説)しかし、龍興の態度が改まらないため織田方に寝返り、秀吉の軍師として活躍。1579年に肺結核により病死した。三国志の諸葛亮に擬えて今公明と呼ばれた、天才軍師として名高い。





黒田官兵衛(黒田孝高、如水、小寺孝高)by長門有希

兵庫の小大名・小寺政職の家臣・小寺職隆の子として1546年12月22日に生まれる。織田信長と毛利氏によって中国地方の勢力が二分された時、信長の才を大きく評価して織田家に降る。以後、豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛が没したため秀吉の軍師となり活躍。関が原の合戦では九州で突如、謎の行動を起こす。





茶々(淀殿)by朝比奈みくる

後の淀殿。豊臣秀吉の側室。秀頼を生み、大阪城の中で強大な権勢を誇った。大阪夏の陣では敗れ、息子・秀頼とともに自害した。大野津長や石田光成との不倫については俗説とされる。





前野長康(浅野将右衛門、坪内光景)by国木田

蜂須賀正勝と並んで豊臣氏最古参の家臣の一人。武勇、知略に優れ秀吉の創業を良く助けた。蜂須賀正勝と終生、友情を貫いたという。秀吉晩年の暗黒事件の一つ豊臣秀次事件に連座。しかし、秀吉の計らいにより不問に付されるはずだったが、秀次を弁護したため中村一氏に預けられて切腹を命じられ息子ともども切腹した。享年69歳







明智光秀(明智十部衛光秀、キンカン頭)by朝倉涼子

美濃斯波氏の傍流、明智氏の御曹司。はじめ斎藤氏に仕えていたが、斉藤道三と息子・義龍が争った長良川の戦いでは道三方として出陣したため、義龍勝利後、出奔。以後、各地を流浪して紆余曲折を経た後織田家に仕官する。全ての事柄において傑出した活躍を見せるが、1582年に突如、本能寺の変で主君・織田信長を討ち天下を取ったが中国大返しを決行した秀吉に山崎合戦で敗れて明智藪において落ち武者狩りの農民に逢い討たれた。





まつ(芳春院)by鶴屋さん

篠原一計の娘。前田利家の正室。12歳で前田利家に嫁ぐ。女性ながら学問や武芸をたしなむ序背院であったという。

1599年に利家が没すると芳春院と称する。その後は前田家のために奔走するが、1600年に前田家への謀反の嫌疑がかけられた際、自ら人質として江戸へ向かう。1614年に息子・利長が没すると、やっと金沢に帰ることが許される。しかし、その三年後の1617年金沢城内において死去。享年70歳。